白足袋のあしあと(その2)
出し人形
神功皇后・武内宿祢

(応神天皇を抱く)

昭和2年
東京 浅草茅町
浪花屋庄田七郎兵衛
(面七)

昭和2年新調当時の写真
この写真は今でも人形の着付けなどのお手本となっている

※H21.4わたやさんによって衣装が新調されました


新屋町 出し人形の変遷

明治時代 三羽烏 作者不詳
明治時代後期 神功皇后、武内宿祢(旧) 作者不詳
大正3年(1914) 佐藤忠信と横川覺範 浪花屋庄田七郎兵衛
大正10年(1921) 曾我兄弟 浪花屋庄田七郎兵衛
昭和2年(1927) 神功皇后、武内宿祢 浪花屋庄田七郎兵衛

この神功皇后の出し人形を新調した時のエピソード。制作費が当初の予算を大きく上回ってしまい、困った役員一同「もし町の衆が納得せなんだら、不足分はわしらで出さまいか」という話になっていた。出来上がった「神功皇后」を見せたところ「そりゃそのくらいはかかっつらよ」とその見事な出来ばえに一同納得したとのことである。

初代の神功皇后・武内宿祢

初代(明治期)の神功皇后の出し

左の写真は大正元年〜2年に撮影されたと思われる、三熊野神社前(新屋町宮前付近)と思われるの写真。
この写真の出しは先代の「神功皇后・武内宿祢」の出し人形で、祢里も明治14年に作られたものが写っている。当時の服装など世俗も写っており、そういう意味でも非常に貴重な写真といえる。

(新屋町・粉奈屋さん蔵)
鍋蓋・万度

昭和2年
岡崎市康生町
中山由太郎政勝



六角形・龍五体の彫刻

鍋蓋下部の墨書き
前後が逆になってる

小さな頃からの素朴な疑問

この鍋蓋を見るたびに、昔から疑問に思っていたことがある。鍋蓋の下側に墨書きで「前」「後」と記してあるのだが、実際の前後とは逆になっている。デザインを見てわざとそうしたのか、はたまた単なる間違いなのか?真相は未だに判明していない。
万度文字 長・樂・萬・年   彫刻 鳳凰・虎・玄武(鍋蓋と一体で四神をなす)

※万度文字は江戸時代末期〜明治時代の安禅寺住職の書とされている

万度・鍋蓋ともに東海の名工「花鳥を彫らせたら街道一」と言われた中山由太郎(号)政勝氏の作。大仕事を終えた中山氏から当町に宛てた手紙が当町稽古場に残されているが、その文中で氏は「自らの一世一代の作」と書き記している。

中山由太郎政勝氏の銘

万度の縁は木の掘り抜き黒漆塗り

万度の縁の部分は木の掘り抜きで、黒漆で仕上げてあるが、これについては「塗るだ」「塗らんだ」の大論争になった。結局塗ることに決まり、ぬしやに持ち込んだところ「万が一の事があったら、とても責任を取りかねる。恐くて出来ない」と断られてしまった。そこで当時の役員衆は「失敗して使い物にならなくなったら、俺がひきとってやるからやれ」とまで言ってようやく出来たいわく付きのもの。
この黒塗りの縁の部分が金具で出来ていると思っていた人も多く、不注意にも持って折ってしまったりすることも多々あった。
中山由太郎氏からの手紙 (新屋町蔵)
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