白足袋のあしあと (その1)


(祭りにかけた先人達の軌跡)

遠州横須賀祭り足袋
遠州横須賀新屋町
わたや謹製

新屋町・祭りの歴史

古文書によれば、元禄14年(1701)9月9日中祭に、河原町・拾六軒町、新屋町の3町で「紅葉狩り」の狂言を行ったことが記されている(池田屋古文書)
また、正徳4年(1714)の御用留には「正月9日、例年通り祭礼御座候 おどり十町 かぐら一町 ねり一町」と書かれている。
さらに明和6年(1769)には73年前の祭礼が雨で日延べになったことが書き記され、それを遡ると元禄9年(1696)にはすでに町民が参加する、祭礼が存在していたことになり、以来300年余の長きにわたり祭りとともに生きてきたことになる。

御用留(惣庄屋覚帳)


江戸天下祭の導入

神田明神祭礼絵巻

黎明期の祭礼についての記録は極めて少ないが、御用留などの古文書からうかがい知る初期の祭礼は現在の祢里の曳きまわしを中心とするものではなく、踊りや狂言、歌舞伎、また仮装行列のようなものが主だったと推測されます。
第14代横須賀城主・西尾隠岐守忠尚公の頃(享保〜宝暦年間)には、江戸天下祭の様式を三熊野神社祭礼に取り入れ、徳川将軍に成り代わって城主が上覧、さらには江戸の町を風靡していた「葛西囃子」を当地・横須賀に伝えたと言われている。

祢里を中心とする祭りに

文化8年(1811)には明らかに現在の祢里と思われる記述が出現。その後瞬く間に全町に普及し、幕末から明治にかけて今のような祢里の曳きまわしを主とするような祭礼形式に変化をとげたと思われます。
新屋町稽古場には「文化9年・尺二寸の大太鼓」「かつぎ祢里(底抜け屋台)」が今なお現存している。

尺二寸の古い大太鼓
「文化九年 尾州今宿村  太鼓屋 堀田長兵衛」の墨書がある

江戸時代〜明治34年まで使われていたかつぎ祢里(底抜け屋台)
大須賀町民俗資料館/蔵

現在に続く

西大谷川の川原へ降りた祢里(大正時代)

明治19年(1886)横須賀十二町の総代の連名で「惣町約定書」が出されている。
それによると、本楽の日、十二台の祢里は西大谷川の川原へ降りて御神輿様をお迎えし、下のお旅所にて神事をとりおこなっている間に、十二番より河原町東端で行列を整え、渡御に供奉するように取り決めている。これは現在の祭礼とほぼ同様の形式といえる。大正時代になり軽便鉄道が開通し、川原が深く掘り下げられたことから、以降祢里は川原へは降りられなくなってしまった。

祭礼日の変遷
江戸時代〜明治42年 太陰暦 旧正月七、八、九日
明治43年〜大正4年 新暦三月七、八、九日(旧暦の正月に一番近い日)
大正5年〜大正9年 新暦正月七、八、九日(3月では学業に差し支える)
大正10年〜昭和38年 新暦四月七、八、九日(正月では寒すぎる)

★この時に4月に決まるまでの経緯は以下のようなものだった。

祭礼日を変更することでは大方が同意していたが、4月と10月の意見が分かれ採決の結果も6対6で双方譲らず、何時までたっても決まらなかった。そこで神の御宣託を仰ぐこととなり、三熊野神社の神殿において、4月と10月の札の入った封筒を供え、時の総代会の最年長者である井田為三郎氏により札を引いた結果、4月の札が出て、以後4月七、八、九日を祭礼日とすることに決した。
昭和39年 四月八、九日(三日間では長すぎる)
昭和40年〜昭和60年 四月第一土、日(勤め人が多くなり、生活実態に合わない)
昭和61年〜現在 四月第一金、土、日(本来の2日半日の祭礼に戻す)

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